火花よんだ

火花

火花

 昨日本屋で手に取った火花読んだ。

以前から又吉を見ていて、世間に迎合せずに自分が面白いと思うことに向かっているという点で独特だしかっこいいなあと思っていたが、世間に迎合せず常に自分の笑いを追求する先輩芸人神谷にあこがれる主人公の姿は、どこか又吉に重なるように映った。なんだか納得した。

先輩芸人神谷の笑いに対するひたむきな哲学に触れて主人公は考える

「美しい世界を、鮮やかな世界をいかに台無しにするかが肝心なんや」 

 

僕と神谷さんの間では表現の幅に大きな差があった。神谷さんは面白いことのためなら暴力的な発言も性的な発言も辞さない覚悟を持っていた。一方、僕は自分の発言が誤解を招き誰かを気付つけてしまうことを恐れていた。

 

神谷さんは、自分が面白いと思うことに背いたことはない。神谷さんは「いないいないばあ」を知らないのだ。神谷さんは、赤子相手でも全力で自分の笑わせ方を行使するのだ。誤解されることも多いだろうけど、決して逃げているわけではない。

 

しかし、自分の求める笑いをつきつめることと、お笑い芸人というものの本質として世間に笑われ認められなければ意味がないということ、この狭間で主人公は悩む。

だが、僕達は自分で描いた絵を自分で展示して誰かに買って貰わなければいけないのだ。額縁を何にするかで絵の印象は大きく変わるだろう。商業的なことを放棄するという行為は自分の作品の本来の意味を変えることにもなりかねない。

しかし実は先輩神谷も自分の笑いを通すということと、受け取り手がいて初めて芸人であることについて悩んで模索している。 

「聞いたことがあるから、自分は知っているからという理由だけで、その考え方を平凡なものとして否定するのってどうなんやろな?」

 

 自分がおもしろいというところでやめんとな、その質を落とさずに皆に伝わるやり方を自分なりに模索しててん。その、やり方がわからんかってん。

 

相方が結婚、子供の誕生を機に、芸人をやめることを告げられる。主人公もこれを機にやめることを決意する。最後のライブで、自分の思う笑いでお客さんが笑うのを見て、お笑いをやってきたことについて肯定的に感動的にある思いに気づく。

 

自分の考え方で世間が笑わない恐怖を、そしてなによりも自分の考えたことで世間が笑う喜びを、そしてそれによって世界の景色が一変する経験を味わえること。 

 

必要がないことを長い時間をかけてやり続けるのは怖いだろう?一度しかない人生において、結果が全くでないかもしれないことに挑戦するのは怖いだろう。無駄なことを排除するということは、危険を回避するということだ。臆病でも、勘違いでも、救いようのない馬鹿でもいい、リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことだけに全力で挑める者だけが、漫才師になれるのだ。それがわかっただけでもよかった。この長い年月をかけた無謀な挑戦によって、僕は自分の人生を得たのだと思う。

 

なんだが40歳を過ぎてから仕事も家庭も捨て、自分の求める世界を表現するためにひたすらに絵を描いたゴーギャンに通じるものを感じた。受け止める人があってなんぼという度合いにおいて、漫才とは少し異なるが、自分の中の真実にまっすぐに表現するという作業は、同じだと思う。

漫才や絵画に限らない、何においても、自分の中の真実を表現することと、周りからの評価や価値観と折衷して日々を歩んでいる。しかし自分の中の真実をリスクをとってでも表現できることは、難しいが美しいと思う。そういう人生を歩みたいなあと感じさせてくれる。

いやあとにかくいい小説だなあまた読み返そうと強く感じた。又吉先生すごすぎる。