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片付けについて思うこと

今日は前の研究室の友達と昼ごはんを食べたあと前の研究室に久々に行ってみた。研究室に新しく来たスタッフはなにやらとてつもないブライトらしいが、その人は本当に机にモノを置かないらしい。なるほど確かに机を見てみると恐ろしいほど物がない、片付いている。

自分はと考えてみるとこれも読むかもなあという本や書類などをたくさん机に置いている。

これについてある仮説がある

机に物を置かないほうが頭がスッキリした状態となりつまりそれは脳のメモリーを食っていない状態であり脳のパフォーマンスを最大化できる。

 

これはつまりは、何か机においているということはやりかけのものがあるからであるケースが自分的に多い。別に必要なときに取り出せるのであれば決めたところにしまっておけばよいのであって、近々やらなきゃなあとか思っているから借り置きしているのである。このことにより、脳の片隅に何かタスクを抱えた状態でリソースを消費しパフォーマンスが落ちた状態の可能性もある。やるべきことがあるならそれをいついつやるなどの算段を決めてシステムとすればよく、やる時間と内容を計画しておけば忘れることなく取り組むことができる。そうした計画もない状態であり、非常に危険な状態である。

また、単純に片付け場所が決まっていないというのも問題で、頭の中も整理されていない可能性がある。

また副次的な問題として、他の作業を行っている際にもふとした隙に借り置きしたものが目に入ることで集中力が削がれるだけでなく、いつも周辺視野に借り置きしたものを捉えている可能性があり、無意識のうちに脳のリソースを食っている可能性もある。

 

要するに、

to do を認識しながらも行う計画を立てずに忘れないための借り置きしているのは問題である。忘れずにして確実に行うための計画に落とし込み、そして片付けることが必要。計画通り行動することだけを考えればよく脳のリソースを食わないようになる。

また単純に片付け場所が決まってないなら頭の整理のためにも片付けることが必要。

また目に入らないことで意識無意識の両面から集中力とパフォーマンスの向上にもつながりうる。

ということである。

 

まああくまで仮説に過ぎないのですが笑

とにかく片付けをしよう、その仮説の検証のためにも。ということですな

決意

人間を変化させるために最も必要なことは何か。

何か行動を起こすことか?

行動を継続することである。

 

行動を継続することである時パラダイムシフトが起き、不連続的に能力が獲得される。ようなことを経験的に感じているがもうちょい調べて証拠がいりますねはい

 

とにかく少しでも良いから継続することが何よりも重要ということで、

獲得したいことと対応する毎日継続すること

・思考を構造化してスムーズにアウトプットする…ブログ

・インプットのスピードのアップ…読書

・集中状態の強化…座禅

・1日の濃度の向上…ゴールデンタイムを睡眠に当てる早寝早起き

 

やること多くね?

睡眠以外は少しづつでも継続したい。睡眠は継続は難しいが日中の時間配分と一旦サイクル作りが必要。

 

気持ちを伝えること

今日は研究室の教授の先生の誕生日を祝う会が開かれた。助教の先生がケーキを買ってきて、僕らもメッセージカードでも用意しようかと思い生協に向かった。

しかしメッセージカードなど生協にあるはずもなかった、ましてや農学部の生協なぞには。

何か代用はないかと探すその目に止まったのが折り紙。

得意の12個のパーツから組み立てられる立体、そのパーツの内側にメッセージを書くことにした。

なかなかのナイスアイデア

 

そしてみんなそれぞれメッセージカードを書いた折り紙で立体を作りプレゼントした。

そのメッセージを先生が読んだ際、とても感動していた。そして普段あまり思ってることを伝えられないタイプのメンバーも手紙なら自分の気持ちを書けているようで、そんなことを考えていたのかと気づくよい機会にもなっていた。

やっぱり思いを伝える機会を設けるのはとても大切である。普段喋っていてもなかなか本音は出ない、手紙にすると自然と思ってることを伝えられるものである。そしてやはりプラスの言葉を相手に伝えるのはとても人間関係を円滑に進める上で重要だと改めて感じるよい機会となった。部活をやっていたときも、節目節目にある色紙に相手の良いところ見つけ書くことで、お互いを尊敬、尊重し合う良い雰囲気が自然と形成されていた。

人間は社会の中で生きている、周りの人と互いに尊重し合い、関係を良いものに保つことは競争社会ではどこか置き去らにされがちだが、やはり何よりも大切なものだと思う、社会に出ても常に忘れないようにしたい。

音楽の3要素

オーケストラの練習などをする際に気になることがある。

オーケストラが演奏し、指導者がその都度指摘を行うが、その指摘に関する話である。

練習でよく見られる指摘は、

・ここを縦を揃えて

・ここの音量もっと大きく

・ここの音程を揃えて

・このフレーズをどう歌うか

・このハーモニーをきれいに

・この和声進行を意識して

などがあるが、特に自主的な練習になればなるほど、リズムや音量の指摘が多くなる。

 

以前芥川也寸志の書いた音楽理論の本に、音楽の3要素についての記載があった。音楽には律動、旋律、和声という3要素があり、前者に行くにつれ原始的なものである、というものである。民族的な儀式などではリズムと音量の要素の強い律動が音楽の主な部分であり、文化が発展すると旋律、和声的な要素が音楽に増えてくる、また人間が成長するにつれて獲得するのもこの順である、ということである。

 

つまり、音楽的教育をプロに比べて十分に受けていないアマチュアが自主練習を行うと、原始的な要素である律動の方が自然と気になってそうした指摘が多くなるのは納得がいく。旋律、和声といくにつれ、指摘が起きにくいという現象に陥ってしまう。

そうした点を踏まえて、アマチュアにおいては、旋律に関する指摘、例えばフレーズ感や歌い方など、また和声に関する指摘、和声のとり方や和声進行、ならびに和声進行に伴う音楽の流れなどを、努めて行っていくことが必要であると思われる。

実際に、ミクロ的に重箱の隅をひとつひとつつつくように縦を揃えたり音量を大きく小さくすることは、音楽的な演奏になるかというとそうではなく、必然性のないままになぜか揃っているという気持ち悪い演奏になることが多い。それよりも、全体のフレーズや和声進行を共有し揃えることで、音量の大小や縦のラインというのは自然と揃ってくる、しかも音楽的に整合性がある。重箱を、つつくのではなく大きな流れで見るマクロ的な視点。そこで揃わない場合は、細かいとこを取り出して練習するのはもちろん必要だが、細かいところからつついていくのは何か違う。

これはやみくもに細かいところを突くのではなく構造化して全体を見てから細かいところを決めるというロジカルシンキングにもつながる話かもしれない。

 

とにかくまあプロとアマの埋まらない溝というものはあるものの、アマチュアも自分たちの陥りやすいこうした点を自覚しつつ、努力して音楽をより良くしていく必要があるということです。

 そんなことをふと思った、そんな週末。

自伐型林業

 

自伐型林業の本読んだ

 

自伐型林業の可能性を感じ高知県で「土佐の森方式」というスタイルで林業を行っている。

この土佐の森方式とは、国がすすめる高額な高性能林業機械を使って集約的に行う方針と逆行し、簡単な架線集材と小型トラックを用いて、少人数で自立的に行えるものである。近年の木材価格の下落により、森林組合などに委託して行うと良くてもトントン、黒字経営は行えないことから、林業を諦めている人は多いが、この土佐の森方式では、収益を上げることが可能であり、林業の未来が見えるものである。

 

読む中で感じたのは、やはり元経営コンサルタントであった中嶋氏だからこそ、事業を行うに当たって金銭的な収益面を含めた、事業を黒字化するにあたって必要なことを考えて行え、さらには高い目線からこの方針を広めることで大きなインパクトを望め、そのために数々の活動を打ち出せることが大きいと思った。そういった引き出しの多さはやはり経営を専門にするコンサルタントはさすがでありそうした人材が林業に参入したからこうした大きなインパクトになったいう印象も感じた。それと同時に、今まで眠っていただけの、森林の大きなポテンシャルを感じた。

 

この本は、自伐型林業を行っている多くの人の体験談がオムニバス的に書いてあるものであり、人によっては高性能林業機械を用いて集約的にやっている人もいてまとまりのなさも感じた。収益的に厳しいという人もいるため、どのようにすれば自伐型林業でしっかり収益を上げられるかもう少し調べたくなった。個人的には社会人になって少ししたら山を買って土日に林業を営んで収益化したいという計画がある。

感じたこと、印象的だったことは以下

 

・自伐型林業では、収益をあげる林業と良好な森づくりを両立できる

・自伐型林業にはまず林道が必要。幅員の小さい林道を自力でつけることが大切、委託するのと自分の山では林道の仕上がりが大きく異なり、また経費もかからない。こうした小規模な林道の密度を増やすことが大切。

・山をまとめて施業を行う場合は、やはり地元民というステータスにより色々とスムーズになることが多そう。

・仕組みができれば一気に広がる。個人的な取り組みが行政を動かすこともよくあるのだなあと新鮮に感じた。

林業は季節性があり、昔から兼業的に行ってきた。兼業とは相性がいい。

高性能林業機械は維持費などのコストがかさむ

 

以前、吉野の林業会社の話で、小さな林道を高密度でつけて行う林業で成功している人の話を聞いたが、日本の細かい山、細かい土地所有では、大規模集約的というよりは、小規模に機動性を高くして行うのが良いのかと思われた。規模の経済が効かないそのやり方でいかに黒字化していくかが課題だと感じたが、個人的にやるのでそこまで大きな黒字化は求めていないのかもしれない。なにより初期投資のからない参入のしやすさ、兼業的に行えることから、山に人を戻す大きな風になりうる。こうした自伐の動きが分散的に各地で大量に起きれば大きなインパクトになる。どの程度収益を挙げられるか、そこが気になる。

 

本質

最近古坂大魔王の動画をよく見ている。

古坂大魔王、最高に面白い。

最高に面白すぎるが、テレビにはあまり出ていない。これはなぜか、これは私たちの生き方にも関わってくる大きなテーマである。

まず、芸人として必要なことは何か

・人を笑わせることが大好きである

この一点に尽きるように思う。

しかし、話はこれだけでは済まされない。テレビの存在である。テレビに映ってもっと多くの人に笑ってもらいたいと思う気持ちも起こる。さらには実際問題人の性として、有名になりそしてお金持ちになりたいと思ってしまう。そのためにはテレビに出ることが必要になる。テレビに出るためにはオーディションに出、コンテストに勝つこと、そしてテレビの求める要求にこたえる必要がある。これが危険の始まりである。コンテストに勝つためにどうすればよいか、テレビの要求にこたえるためにはどうすればよいか、これを真剣に考えるようになってしまう。お笑いの本質である目の前の人を笑わせることを心から楽しませること、から遠のき、笑いのテクニックだけがついていく。

そして、テレビの中で生きるころには、人を笑わせることを楽しむよりも、笑いのテクニックで人を笑わせることがすごいだろ?的な感じになっていく人も多い。もちろん面白い、しかし笑いの本質とは何だろうとも思う。

 

古坂大魔王は違う。

古坂大魔王は地位や名誉や金を重要視していない。いつも、ただ目の前の人を笑わせていたいという気持ちが極めて強い、本当の芸人である。歳を取ると、売れなきゃ、ちゃんとしなきゃという思いが強くなってくる。あまり売れていない歳を重ねた芸人の笑えなさはそうした気持ちを感じてしまうからというのもある。古坂大魔王はただ目の前の人を笑わせるのが大好き、楽しいことが大好き、この一心でいつもやっている。とっても輝いて見える。

笑わせるテクニックだけが高いテレビの多くの芸人より、人を笑わせることが心から好きでしょうがない古坂大魔王は本物の芸人だなあと感じる。しかしどちらが劣っているというわけではない、テクニックをつけてたい、テクニックを披露するのが大好きだと本人が志向していてそれが実現していれば立派だし、大金を稼ぎたい、大金を稼ぐことが大好きだと思って大金を稼げていればそれもまた立派なことである。しかしそれは芸人ではなくテクニック屋、金稼ぎ屋というべきものでもある。自分は芸人であるのに金やテクニックに惑わされ道を逸れているのは少し残念というだけである。

 

 

自分の好きなことにひたむきに進む本物はやっぱりキラキラと見える。しかし稼ぎがなければちゃんとしていないとみなされがちであるが果たしてそうだろうか。自分と周りの人を幸せにすれば他に何が必要だろうか。そして、本物を貫けばだんだんと風向きが変わってくるとも思う。実際に古坂大魔王もじわじわと周りの風向きが変わってきているなあと感じる。

 

自分は何が好きなのか、何屋になりたいのか、それを定め、それに向かって日々歩んでいきたい。様々な誘惑は多い。惑わされないようにしなければいけない。

本物になりたいものだ。

火花よんだ

火花

火花

 昨日本屋で手に取った火花読んだ。

以前から又吉を見ていて、世間に迎合せずに自分が面白いと思うことに向かっているという点で独特だしかっこいいなあと思っていたが、世間に迎合せず常に自分の笑いを追求する先輩芸人神谷にあこがれる主人公の姿は、どこか又吉に重なるように映った。なんだか納得した。

先輩芸人神谷の笑いに対するひたむきな哲学に触れて主人公は考える

「美しい世界を、鮮やかな世界をいかに台無しにするかが肝心なんや」 

 

僕と神谷さんの間では表現の幅に大きな差があった。神谷さんは面白いことのためなら暴力的な発言も性的な発言も辞さない覚悟を持っていた。一方、僕は自分の発言が誤解を招き誰かを気付つけてしまうことを恐れていた。

 

神谷さんは、自分が面白いと思うことに背いたことはない。神谷さんは「いないいないばあ」を知らないのだ。神谷さんは、赤子相手でも全力で自分の笑わせ方を行使するのだ。誤解されることも多いだろうけど、決して逃げているわけではない。

 

しかし、自分の求める笑いをつきつめることと、お笑い芸人というものの本質として世間に笑われ認められなければ意味がないということ、この狭間で主人公は悩む。

だが、僕達は自分で描いた絵を自分で展示して誰かに買って貰わなければいけないのだ。額縁を何にするかで絵の印象は大きく変わるだろう。商業的なことを放棄するという行為は自分の作品の本来の意味を変えることにもなりかねない。

しかし実は先輩神谷も自分の笑いを通すということと、受け取り手がいて初めて芸人であることについて悩んで模索している。 

「聞いたことがあるから、自分は知っているからという理由だけで、その考え方を平凡なものとして否定するのってどうなんやろな?」

 

 自分がおもしろいというところでやめんとな、その質を落とさずに皆に伝わるやり方を自分なりに模索しててん。その、やり方がわからんかってん。

 

相方が結婚、子供の誕生を機に、芸人をやめることを告げられる。主人公もこれを機にやめることを決意する。最後のライブで、自分の思う笑いでお客さんが笑うのを見て、お笑いをやってきたことについて肯定的に感動的にある思いに気づく。

 

自分の考え方で世間が笑わない恐怖を、そしてなによりも自分の考えたことで世間が笑う喜びを、そしてそれによって世界の景色が一変する経験を味わえること。 

 

必要がないことを長い時間をかけてやり続けるのは怖いだろう?一度しかない人生において、結果が全くでないかもしれないことに挑戦するのは怖いだろう。無駄なことを排除するということは、危険を回避するということだ。臆病でも、勘違いでも、救いようのない馬鹿でもいい、リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことだけに全力で挑める者だけが、漫才師になれるのだ。それがわかっただけでもよかった。この長い年月をかけた無謀な挑戦によって、僕は自分の人生を得たのだと思う。

 

なんだが40歳を過ぎてから仕事も家庭も捨て、自分の求める世界を表現するためにひたすらに絵を描いたゴーギャンに通じるものを感じた。受け止める人があってなんぼという度合いにおいて、漫才とは少し異なるが、自分の中の真実にまっすぐに表現するという作業は、同じだと思う。

漫才や絵画に限らない、何においても、自分の中の真実を表現することと、周りからの評価や価値観と折衷して日々を歩んでいる。しかし自分の中の真実をリスクをとってでも表現できることは、難しいが美しいと思う。そういう人生を歩みたいなあと感じさせてくれる。

いやあとにかくいい小説だなあまた読み返そうと強く感じた。又吉先生すごすぎる。